知財紛争が起きた時に技術者が取るべき行動:研究開発への影響を最小限に抑えるために
研究開発に携わる技術者の皆様は、日々の業務で新しいアイデアを生み出し、技術を形にすることに注力されていることと思います。知財権の取得や活用については、ある程度意識されているかもしれません。しかし、「知財紛争」と聞くと、それは法務部門や知財部門の担当する領域であり、自分たち技術者からは遠い出来事だと感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
しかしながら、知財紛争は技術を巡って発生するものであり、その解決プロセスには技術的な知見が不可欠です。そして、その知見を持っているのは、まさに研究開発の現場で技術を生み出し、育ててきた皆様自身です。知財紛争に適切に対応できるかどうかは、企業の存続や将来の研究開発活動に大きな影響を及ぼします。
この記事では、万が一知財紛争が発生してしまった場合に、研究開発に携わる技術者がどのように状況を理解し、どのような行動を取るべきかについて、基礎知識と実践的な視点から解説します。紛争発生時の混乱を最小限に抑え、研究開発活動への影響をコントロールするためのヒントを提供できれば幸いです。
知財紛争とは何か?技術者にとってなぜ無関係ではないのか
知財紛争とは、特許権、意匠権、商標権、著作権などの知的財産権の成立、有効性、または侵害を巡って発生する争いのことです。代表的なものとしては、以下のようなケースがあります。
- 侵害訴訟: 自社の製品や技術が他社の知財権を侵害していると主張される、あるいは他社の製品や技術が自社の知財権を侵害しているとして訴えるケースです。
- 無効審判: 成立した知財権(特に特許権)が、実は権利として成立すべき要件を満たしていなかったとして、その有効性を争うケースです。
- 差止請求: 他社の侵害行為に対し、その行為の停止を求めるケースです。
- 損害賠償請求: 知財権侵害によって生じた損害の賠償を求めるケースです。
これらの紛争は、最終的に法的な手続きを経て解決されることが多いですが、その根幹には常に「技術」が存在します。例えば、侵害訴訟であれば、問題となっている製品や技術が、権利が主張されている知財権の「技術的範囲」に属するかどうかを判断する必要があります。無効審判であれば、権利取得時に存在した先行技術や技術常識と比べて、対象の技術に進歩性があったかなどを判断します。
これらの判断には、条文の解釈だけでなく、高度な技術的理解と、実際の開発過程に関する詳細な情報が不可欠です。そして、それらの情報や知見を提供できるのは、開発に携わった技術者以外にありません。知財紛争は、法務・知財部門と技術部門が緊密に連携して初めて対応できる、技術者にとって決して他人事ではない出来事なのです。
知財紛争発生時に技術者が取るべき初期行動
万が一、自社が知財紛争に巻き込まれた(例えば、他社から侵害を指摘する警告書が届いた、あるいは訴訟提起された)場合、最初に技術者がどのように振る舞うかは非常に重要です。
1. 担当部門への即時報告
最も重要な初期行動は、社内の知財部門や法務部門(組織によっては研究企画部門などが窓口になることもあります)に、速やかに、正確に、事態を報告することです。技術的な内容はもちろん、警告書や訴状に記載された事実関係、連絡を受けた日時なども正確に伝えてください。
間違っても、自己判断で相手方に連絡を取ったり、安易な約束をしたり、事実と異なる説明をしたりしてはいけません。知財紛争は法的な手続きに則って進められるため、専門家の指示なく動くことは、事態をより複雑にし、不利な状況を招く可能性があります。
2. 関連情報の保全と提供
紛争対応においては、過去の様々な記録が重要な証拠となります。関与した技術者、特にチームリーダーは、以下の情報を直ちに保全し、担当部門の指示に従って提供する準備をしてください。
- 研究開発ノート/実験ノート: アイデア発想、実験、試作、評価などの記録。発明の完成時期や進歩性を主張する上で極めて重要です。
- 開発関連の電子データ: 設計ファイル、ソースコード、シミュレーションデータ、試験データ、解析結果など。タイムスタンプ付きで保存されていることが望ましいです。
- 会議議事録、打ち合わせメモ: 開発方針の決定、技術課題の検討、知財リスクに関する議論などの記録。
- メール、チャットの記録: 開発チーム内外での技術的なやり取り、共同研究先とのコミュニケーション記録など。
- 先行技術調査の記録: 開発着手時や途中で実施した特許調査、文献調査の記録。
- 製品仕様書、取扱説明書: 自社製品/技術の具体的な内容を示す資料。
- 製造記録、出荷記録: 製品の製造・販売時期を特定するための記録。
これらの記録は、訴訟における証拠として提出される可能性があります。担当部門からの指示があるまで、関係者間で勝手に削除したり、改変したりしないように徹底してください。
3. 外部への情報漏洩防止
紛争が表面化したという情報や、対応方針に関する情報は、外部に漏れると相手方に戦術を知られることになり、極めて不利になります。関係者間での情報共有に留め、SNSや私的な場で言及することは絶対に避けてください。また、社内外の他のプロジェクトメンバーに対しても、安易に情報を共有しないよう注意が必要です。情報は、知る必要がある人に限定して、知財部門や法務部門のコントロールのもと共有されるべきです。
紛争対応における技術者の具体的な貢献
初期対応後は、担当部門と連携しながら、紛争の解決に向けた様々な活動に技術者として深く関わることになります。技術者の貢献は、紛争の行方を左右するほど重要です。
1. 事実関係の調査・説明への協力
紛争対応の初期段階で最も求められるのが、技術者による事実関係の正確な説明です。
- 他社知財権の技術的範囲の解釈: 相手方が権利主張する特許権の請求項などを、技術的な観点から解釈し、その技術が具体的に何を指しているのか、曖昧な表現があればどう理解できるのかなどを説明します。
- 自社技術との対比: 自社製品や技術が、相手方の知財権の技術的範囲に含まれる構成要素を全て備えているか(侵害論)、あるいは技術的な違いは何か(非侵害論、無効論)を詳細に説明します。回路図、フローチャート、物性データなど、具体的な技術資料を用いて説明することが効果的です。
- 開発経緯の説明: なぜその技術開発に至ったのか、どのような試行錯誤があったのか、いつ頃どのような技術的思想が生まれたのかなどを説明します。これは、特に無効審判における進歩性や記載要件違反を主張する際に、発明の困難性や先行技術からの乖離を示す上で重要となります。
- 先行技術文献の調査・説明: 無効審判で相手方特許を無効にするためには、その特許出願前に存在した先行技術を示す必要があります。知財部門からの依頼に基づき、技術的な観点から有効な先行技術文献を探し出したり、発見された文献の内容を技術的に正確に理解・説明したりします。
- 技術常識に関する説明: ある技術分野における「常識」であったこと、あるいは「困難」であったことを説明することも重要です。これは進歩性の判断に大きく影響します。
弁護士や弁理士は法律の専門家ですが、技術の専門家ではありません。技術者が彼らに技術内容を正確かつ分かりやすく伝えることが、法的な主張を組み立てる上での基盤となります。専門用語を避けたり、図やグラフを用いたりするなど、工夫して説明することが求められます。
2. 技術専門家としての意見提供・証言
紛争が訴訟に発展した場合、技術者はより公式な形で技術的専門知識を提供することになります。
- 技術鑑定への協力: 裁判所から選任された技術鑑定人や、自社で依頼した鑑定人に対し、技術的な状況を説明したり、鑑定意見書の作成に協力したりします。
- 証人尋問での証言: 開発担当者などが、開発当時の状況や技術内容について、法廷で証言を求められることがあります。事前の十分な準備と、事実に基づいた誠実な証言が求められます。
これらの場面では、緊張したり、誘導尋問に戸惑ったりすることもあるかもしれません。事前に担当弁護士・弁理士と十分な打ち合わせを行い、想定される質問への回答を準備することが重要です。
3. 代替技術の開発・回避設計(バイパス設計)
侵害リスクがある場合、紛争解決を待たずに事業を継続するために、リスクのある技術要素を使用しない代替技術を開発したり、他社特許の技術的範囲を意図的に回避する設計変更を行ったりすることがあります。これは「バイパス設計」と呼ばれ、技術者が主体となって推進すべき活動です。
バイパス設計は、単に技術を変えるだけでなく、変更後の技術が他社の別の知財権を侵害しないか(FTO: Freedom to Operateの再確認)、製品性能や製造コストにどう影響するかなど、多角的な検討が必要です。知財部門と密接に連携し、技術的な実現可能性と知財リスク、ビジネスへの影響を総合的に評価しながら進めます。
チームリーダー・マネージャーが知財紛争で考慮すべきこと
研究開発チームのリーダーやマネージャーは、自身の役割に加えて、チーム全体への配慮も必要になります。
- チームメンバーへの適切な指示と情報管理: 紛争に関する情報は機密性が高いため、情報を共有する範囲や内容を厳密に管理する必要があります。知財部門や法務部門からの指示に基づき、必要なメンバーに必要な情報のみを、適切なタイミングで共有してください。また、メンバーに対して、外部への情報漏洩防止を徹底するよう指示してください。
- チームメンバーのケア: 知財紛争への対応は、技術者にとって精神的な負担となることがあります。日々の開発業務に加え、膨大な過去資料の調査や、法的な場での説明準備など、通常業務外の負荷がかかります。メンバーの状況を把握し、必要に応じて業務分担を見直したり、メンタルケアを行ったりすることもリーダーの重要な役割です。
- 研究開発活動の継続と優先順位付け: 紛争対応は緊急度が高くなることが多いですが、進行中の研究開発活動を完全に止めるわけにはいきません。紛争対応に必要なリソース(時間、人員)を確保しつつ、それ以外の開発業務の優先順位を見直し、効率的なチーム運営を維持する必要があります。バイパス設計が必要になった場合は、そのプロジェクトを優先させる判断も求められるでしょう。
- 将来の紛争リスク低減に向けた取り組み: 一度紛争を経験することは、チームにとって貴重な学びとなります。今回の経験を踏まえ、日頃からの研究開発ノート記載方法の見直し、重要な技術情報の記録・管理方法の改善、メンバーの知財リテラシー向上のための教育実施など、将来的な紛争リスクを低減するための組織的な取り組みを検討・実行していくことが重要です。
まとめ
知財紛争は、技術開発の現場から遠い出来事ではなく、むしろ技術者がその解決に不可欠な役割を果たす局面です。紛争が発生した際には、慌てずにまずは担当部門に速やかに報告し、関係情報の保全に努めてください。そして、その後の対応プロセスにおいては、技術者としての専門知識を活かし、正確な事実関係の説明や、代替技術の開発など、様々な形で積極的に貢献することが求められます。
チームリーダーやマネージャーは、メンバーへの適切な指示、ケア、そしてチームとしての研究開発活動の継続・調整といった側面も考慮に入れる必要があります。
知財紛争への備えは、日頃からの適切な記録管理や、チーム全体の知財リテラシーを高める努力から始まります。これらの取り組みは、紛争が発生した際の対応力を高めるだけでなく、日々の研究開発活動の質を高め、将来の知財創造や活用にも繋がるものです。本記事が、皆様の研究開発活動における知財リスクへの備え、そして万が一の紛争時における冷静かつ効果的な対応の一助となれば幸いです。